東京地方裁判所 昭和24年(シ)30号 決定 1955年8月29日
申立人 松浦ゑい
相手方 石川すゑ 外四名
主文
本件申立はいずれもこれを棄却する。
理由
第一、申立人の本件申立の要旨
(1) 申立人は昭和二十年三月九日当時相手方等先代石川孝次郎からその所有の東京都台東区浅草雷門二丁目十一番地所在木造亜鉛葺パラペツト式二階建一棟建坪七坪二階七坪を期間の定めなく賃料一ケ月金三十九円の約束で賃借していたところ、同日右建物は戦災により焼失した。当時この建物の敷地十坪五合(以下本件土地という)は東京都の所有に属し石川孝次郎はこれを同都から建物所有の目的で賃借していたものである。
(2) そこで昭和二十一年九月二十八日、前記罹災家屋の一部を申立人より転借し申立人と懇意の間柄であつた森よしが申立人の代理人として石川孝次郎に対し、建物所有の目的を以て同人の東京都に対して有する本件土地賃借権を譲渡されたい旨口頭で申出で、またその頃、申立人の仲働き兼事務員であつた今野ゑい子(その後勝浦ゑい子と改名)においても申立人の代理人として重ねて前同様の申出を孝次郎になしたところ、同人はいずれも即時これら申出を拒絶したが、この拒絶は正当事由を欠き無効であるから、右申出の日から、三週間の法定期間の満了した時、同人はこれを承諾したものとみなされ、本件土地賃借権は相当な対価で同人から申立人に譲渡された。
(3) 仮に右のような借地権の譲渡が認められないとすれば、申立人は以下にのべるとおり、後記建物について賃借権の設定を受けたのである。すなわち、前記借地権譲渡申出後、孝次郎は本件土地上に木造亜鉛葺平家建家屋一棟建坪六坪七合五勺(以下本件建物という)を建築所有したので、その完成前である昭和二十一年十二月二十二日申立人の内縁の夫たる深町良平が申立人の代理人として口頭で孝次郎に対し本件建物を賃借したい旨申出でたところ、同人は即時これを拒絶した。しかしこの拒絶は正当な事由を欠き無効であるから、同人は右申出の日から三週間の経過とともにこれを承諾したものとみなされ、申立人は相当な借家条件で本件建物を賃借した。
(4) ところで孝次郎は昭和二十七年十二月二十日死亡し、その子等である相手方石川すゑ、同石川千代、同石川太郎及び同石川金三郎並びに妻である相手方石川長子が相続により前記(2) の借地権譲渡人たる地位を承継したのであり、仮に右借地権譲渡の認められないときは前記(3) の本件建物についての賃貸人たる地位をその所有権とともに承継したのである。しかるに、相手方等はすべて(2) の借地権譲渡及び(3) の借家権設定のいずれをも争い、右の譲渡対価及び借家条件について協議が調わないから、申立人は、第一次的に本件土地賃借権譲渡の確認及びその譲渡対価を定める裁判を求め、仮にこの申立の理由がないときは、第二次的に本件建物賃借権を有することの確認及びこれが借家条件を定める裁判を求める。
第二、相手方等の答弁の要旨
申立人が本件申立の理由として主張する第一の事実のうち、(1) の事実全部(3) のうち相手方等先代亡石川孝次郎が本件土地上に本件建物を建築所有したこと及び(4) のうち同人が昭和二十七年十二月二十日死亡しその妻子等である相手方等において相続により本件建物所有権を承継取得したことはいずれも認めるけれども、その余の事実はすべて否認する。
(甲)仮に申立人が第一(2) において主張する本件土地賃借権譲渡の申出があつたとしても、この申出は以下にのべる理由によつて無効である。
石川孝次郎は昭和二十年十一月十六日本件建物についての建築許可申請をなし、同年十二月二十日その許可を受け、ついで翌二十一年八月二日本件土地上に右許可を受けた旨記載した木札を立て、同月十九日土木建築請負業者坂本組と本件建物築造についての請負契約を締結した。坂本組は同月二十一日本件土地の焼跡を取片づけ同年十月十七日その地形を、ついで同月二十八日水盛をした上同月三十一日本件建物の棟上げをした。更に翌二十二年六七、月頃本件建物の完成をみその引渡を受けてより孝次郎はこゝに居住し写真撮影業を営むに至つた。以上の事実よりみて、申立人が本件土地賃借権譲渡申出をしたと主張する昭和二十一年九月二十八日当時孝次郎は本件土地を権原により現に建物所有の目的で使用していたものといいうるから、右申出は罹災都市借地借家臨時処理法(以下臨時処理法という)第三条、第二条第一項但書前段の規定によりその効力を生じる由もない。
(乙)また仮に申立人が第一(3) において主張する本件建物賃借権設定の申出があつたとしても、これに対して孝次郎が即時拒絶したことは申立人の自から主張するところであり、しかもこの拒絶には以下に述べるような正当事由が存するから、右申出は有効に拒絶されたのである。
(イ) 孝次郎は従前数十戸の貸家を所有しその家賃で生計を樹て子女を教育して来たが、昭和二十年三月九日の戦災によりその居宅、貸家を全て失い、収入の道を全く断たれてしまつたので、戦後止むを得ず貸家の罹災跡地に対する借地権の大部分を他に売却して建築資金を捻出し、これによつて本件建物を建築し、爾来こゝで老駆に鞭打ち実弟の助力を得て、写真撮影業を営んで来た。
本件土地の隣地には孝次郎の建築した貸店舗と金物類の小売を業とする店舗とが存するけれども、前者は同人の長男において、後者は独身の二人の娘においていずれも父とは全く別個に経営しているものであり、成年に達しそれぞれ独立生活を営むこれら子女の生業の場所となつているのであるから、これらの店舗よりの収益は孝次郎の収入とは全く無関係である。
かようなわけで、孝次郎は本件建物を自己の店舗として使用する以外には、その生計の資を得る途がない。
(ロ) これに反して申立人は本件建物を自から使用する必要など全くない。申立人は肩書住所に宏荘な邸宅を構え、その夫深町良平は弁護士として北区田端町に法律事務所を設け、都内に多数の貸家貸地を所有する等隆盛な経営、生活を享受しているのであつて、申立人の営業又は居住のために本件建物を必要とする事由は何等存しない。
もともと申立人自からは罹災家屋に居住せず、これを分割してその一部に妹杉本喜栄やその娘婿内山栄一を住まわせ、他の部分は第三者に転貸して自己の支払うべき家賃に数倍する転貸料を徴集し、多年に亘り多大の利益をあげていたものであつて、昭和二十一年八月以来着工されながら、偶々工事遅滞のため竣工の遅れていた本件建物についてなされた賃借申出も、この従前の利得に再びあずかろうとするものにほかならない。なお、罹災家屋の住居者であつた杉本及び内山に対しては、孝次郎もその立場に同情し本件土地の隣接地を提供して同人等を居住させているのであるから、この上更に孝次郎が申立人に本件建物を賃貸しなければならぬ義務があろうとは考えられない。
第三、相手方等の第二、(甲)及び(乙)の主張に対する申立人の反駁
第二、(甲)の事実は否認する
第二、(乙)の事実について。
相手方等は先代石川孝次郎の本件建物賃借申出に対する拒絶には正当な事由があるものとして第二、(乙)(イ)及び(ロ)の主張をなしているが、この拒絶はつぎに述べるように、正当な事因にもとずいてはいない。
(イ) 孝次郎の本件建物使用の必要はそれほど強いものではない。
同人は本件土地を含む附近一帯の宅地に借地権を有し、その地上家屋の罹災焼失後いち早く右借地権の一部を三十数万円の対価を得て旅館業者に譲渡し、爾余の部分に所謂マーケツト式建物と店舗とを建築して前者を他に賃貸し金物販売業を営み多大の収益をあげている外、本件土地の東南側隣接地に建坪十数坪の住宅を建てゝ居住している。このように、孝次郎は住居にも店舗にも事欠かず豊かな生活をしておりながら、更に本件建物を建築し写真撮影業を営むに至つたのである。従つて同人が本件建物を使用する必要はその主張する程に強度なものとはいゝ得ず、これを申立人に賃貸しても何等の支障も起り得ない。
(ロ) これに反して、申立人は本件建物を使用すべき切実な事由を持つている。
申立人一家と石川孝次郎一家との関係は、申立人の亡父松浦春吉が孝次郎の先代から本件土地の一部に存した家屋を申立人名義で借り受けたことより始まり、爾来今日に至るまで約四十年の長きに及んでいる。その間大正十二年の関東大震災により孝次郎が借地権を有する本件土地を含む附近一帯の宅地約二百坪上の建物はすべて焼失してしまつたため、焼失家屋の再築をなす資力を欠いた孝次郎の求めにより申立人はじめ借家人等が各自借家敷地跡に自費でバラツクを建築しこれに居住したのであるが、昭和三年頃本件土地上に存した申立人所有の仮設建築物と岸しち所有の仮設建築物とを申立人の妹杉本喜栄が勝手に青木某に売渡したので、申立人は同人より金七千五百円にて右二棟の建物を買受けた。ところがその敷地使用権について、孝次郎との間に紛議を生じ、右敷地が東京都の所有に属し転貸が許されない等の事情にあつたため譲歩を余儀なくされ、申立人は右建物二棟の所有権を無償で孝次郎に譲渡した上あらためてこれを同人から賃借すること、なお将来申立人が右仮設建築物二棟を取毀しその敷地跡に本建築をなし、その建物所有権を同じく無償で孝次郎に譲渡した上同人よりこれを賃借する旨の合意が申立人と孝次郎との間に成立した。この合意に従いその後数年ならずして申立人は更に金千円を費して第一の(1) において述べたような本件罹災建物を新築し、これを孝次郎に無償譲渡して同人から賃借し罹災当時にまで及んだのである。しかも申立人は、戦災後孝次郎及びその家族多数を申立人の肩書住居に迎え、爾来八ケ月の長きに亘り無債でこゝに居住せしめ、孝次郎においても深くこれを感謝していたという特別の事情があつたのである。
以上縷述したように本件土地に関してその父のときから深い交渉を持ち、今日の時価に換算すれば巨額に達する資金を投入している申立人としては、本件建物を自から使用し得べき十分な理由を持つているし、また強くこれを望んでいる。他面申立人は戦災により北区田端町にあつた家作の大部分を焼失し、経済上も戦前のような余裕を失い、本件建物において営業をなし、生活の資を得なければならない現状にあるのであるから、本件建物を使用すべき切実な事由を持つているのである。
第四、当裁判所の判断
(一) 第一、(1) の事実は、この点について当事者間に争がないという事実に照しこれを認めることができる。(もつとも申立人は当初前記罹災建物は申立人の所有に属していたもので、その敷地たる本件土地の転借権を有する旨主張し、証人深町良平の証言(第一回)及び申立人本人の供述(第一回)中にこの主張に副う部分が存するけれども、その後申立人はこの主張を第一(1) のように訂正し、証人深町良平(第二回)もこれに従う供述をするに至つた。なおこの点については後記(四)(乙)(ロ)においてふれるであろう。)
(二) 第一、(2) の借地権譲渡申出について。
申立人は、森よしが昭和二十一年九月二十八日申立人の代理人として本件土地賃借権譲渡申出を石川孝次郎になし、今野(その後勝浦と姓を改める)ゑい子もまたその頃申立人本人の代理人として同様の申出を孝次郎になした旨主張し、申立人本人(第二回)、証人森よし(第一、二回)及び同勝浦ゑい子(第一、二回)はいずれも右主張に副う供述をしている(但し、勝浦ゑい子は申立人の代理人としてではなく、その使者として申立人の申出を孝次郎に伝えた旨右申立人本人(第二回)及び証人勝浦ゑい子(第一、二回)はそれぞれ供述している)。しかしながら、右各供述は、申立人本人(第一回)及び証人深町良平(第二回)のこの点に関する各供述と比較し、証人石川歌子の証言(第二回)によつて真正に成立したものと認められる乙第一号証の一乃至三の各記載並に証人石川歌子(第二回)、同石川徳重の各証言及び石川太郎の証人としてのまた相手方本人としての各供述と対照し、更に本件審理の全過程を通じてこれを検討すると、たやすく信用することができない。その他右借地権譲渡申出の事実を確認するに足る証拠は存しない。
従つて右申出のなされたことを前提とする申立人の第一次的申立は、すでにこの点において理由がないから、その余の諸点に対する判断は一切省略し、これを棄却すべきものとする。
(三) 前示乙第一号証の一乃至三、証人石川歌子の証言(第二、四回)によつて真正に成立したものと認められる乙第二乃至第六号証及び甲第三、七、十四号証「いずれも右甲号各証の成立(甲第十四号証については原本の存在及びその成立)については、この点につき当事者間に争がないという事実によつて認められる。以下このようにして真正の成立を認め得る書証は単にその番号のみを記載するに止める。」の各記載並に証人石川歌子(第一乃至第四回、但し後記不採用の部分を除く)、同石川徳重及び同深町良平(第一乃至三回)の各供述をあわせ考えるとつぎのような事実が認められる。孝次郎は本件土地をその敷地の一部とする住宅兼店舗用建物一棟を建築して写真撮影業を営むべく、昭和二十年十一月十六日その建築許可申請をなし同年十二月二十日許可を受けたが、その後予定を変え、本件土地上に店舗用の本件建物一棟(但し建坪は申立人主張の六坪七合五勺と異り八坪二合五勺である)を、本件土地と同番地内でその東南方にあたる部分に住宅兼作業所用の家屋一棟建坪八坪強を建築することにして、この工事を昭和二十一年八月十九日土木建築請負業者坂本組に請負はせた。この請負契約に従つて坂本組は同年十月三十一日右二棟の建物の棟上げをしたが、材料費の値上り等のため約旨に反しその後の工事を進めなかつた。もつとも住宅兼作業所用の建物は同年十二月末日に至りわずかに居住に堪える程度に施工されたので孝次郎は同組よりその引渡を受け家族とともに間借先からこゝに引移ることができたものの、店舗用の本件建物は殆ど上棟当時のまゝ放置されていたため、同人は坂本組に種々督促しついには警視庁生活課の斡旋を得て漸く翌二十二年三月頃より右工事を進捗させることができた。しかし結局右工事は坂本組においてこれを完成しなかつたので、前記請負契約は合意解約され、その後は孝次郎が直接大工等を傭つて残余の工事をなさしめ、同年六月本件建物の竣工を見、その翌月写真撮影業を開業するに至つた。このような事情のため本件建物を孝次郎において完成所有するに至るまでには異常に長い期間が費されたのであるが、その間の昭和二十一年十二月二十一日偶々本件土地に立寄り本件建物が築造中で前示のように上棟を了えた程度にまでなつているのを知つた申立人の内縁の夫深町良平は翌二十二日孝次郎をその間借先に訪ね同人に対し申立人の代理人として本件建物を賃借したい旨申出でたところ、同人は即座にこれを拒絶した。かように認められ、この認定に反する証人深町良平の証言(第三回)によつて真正の成立を認め得る甲第十二号証の記載並に証人小池薫次郎、同森よし(第一回)、同勝浦ゑい子(第一、二回)、同石川歌子(第二、三回)及び同石川太郎の各供述部分はいずれも前示各証拠と比較して採用し難く、その他右認定を左右するに足る証拠は存しない。
(四) そこで孝次郎の右拒絶に正当事由があるか否かが問題となる。
(甲)第三乃至第九号証の各記載と証人深町良平(第二回)、同石川歌子(第一乃至第三回)及び同石川徳重の各証言並に石川太郎の証人としての及び相手方本人としての各供述とをあわせ考えるとつぎのような事実が認められる。
孝次郎は旧くから本件土地を含む東京都台東区浅草雷門二丁目十一番宅地約百四十坪及びこれと道路をへだててその南側にある同町九番宅地約百五、六十坪をその所有者である東京都より賃借し、十一番地上には自己の住宅及び店舗(こゝで写真撮影及び材料販売業を営む)並に貸家数軒(このうちの一軒が冒頭(一)に認定した申立人賃借の罹災家屋である)を、九番地上に貸家十数軒(但しそのうちの一棟は、右写真撮影のための作業所として自から使用する)を各所有し、なお都内の他の場所にも家作、貸地等を有しその賃料と営業上の収益とにより相当裕福に生活して来たが、昭和二十年三月九日の戦災にあつてこれらの居宅、店舗、貸家のすべてを焼失し収入の途もとだえてしまつた。幸い申立人の好意により、戦災を免がれた申立人の肩書居宅に孝次郎とその家族は仮寓を求めることができたが、終戦後間もなく他の親戚宅に転じ、更にその年末台東区浅草向柳原にある元店員の居宅の一部を借受けここに引移つた。かような窮境を打開するためには、残された唯一の財産ともいうべき前記借地権又は貸地を処分するよりほかはなかつたので、孝次郎は昭和二十一年三月頃同区浅草花川戸にあつた借地六十余坪の借地権を、同年六、七月頃前記九番宅地のうち約八十坪についての借地権をいずれも他に譲渡し、その譲渡代金の一部を生活費にあてるとともに爾余の金員を以て前記十一番宅地上に家屋を建築所有した。すなわち、先づ同年五月頃右宅地のうち北側道路に面する部分に木造板葺平家建家屋一棟建坪七坪を建て、ついで前示(三)のように本件建物及び住宅兼作業所の建築に着手し、翌二十二年春頃南側道路に面する部分に所謂マーケツト式の建物(木造板葺平家建店舗兼住宅一棟建坪十八坪)を建てた。なお申立人の妹杉本喜栄及びその娘婿内山栄一が前記七坪の建物竣工後本件土地の南隣に家屋を建てこゝに居住するようになつた(この家屋については後記(乙)末段でふれる)。前記七坪の建物には孝次郎の二女歌子が三女千代とともに移り住み当初は荷物預りを商い、ついで金物販売業をはじめその収益は主として歌子、千代のものとされその後歌子を代表取締役とし、千代及び孝次郎の妻長子を各取締役とする株式会社石川商店が設立され、(これが右業務を行う形をとるようになつたが、やはり歌子個人が主としてその経営にあたつている。)また前記マーケツト式建物は九戸に分割の上いずれも他に賃貸されその家賃は主として孝次郎の長男である相手方石川太郎の収入とされていて、いずれも成年に達し父孝次郎とは別個独立の生活を営むこれら子女の生計の資とされた。
更に前記九番宅地のうち上記のように借地権の譲渡されたその余の部分及び前記十一番宅地のうち上記のように建物の建てられたところ以外で西側道路に面する部分についての借地権は、その後数名の旧借家人からなされた臨時処理法にもとずく申出により同人等に各譲渡され、九番宅地のうちでは、十五坪六合五勺と十一坪六勺の各借地のみが残存し、十一番宅地の方は道路に面する部分より奥に入つた東側中央の部分約二十坪が空地として残り、本件建物と住宅兼作業所とをつなぐ通路と庭とに使用されている。昭和二十七年十二月二十日石川孝次郎は死亡し妻長子、養女すゑ、前記歌子、千代、太郎及び三男金三郎がその相続をし(但し歌子は遺産のうち現金のみを、他の五名はその余の不動産を、従つて、そのうちの本件建物所有権をその敷地賃借権とともに各承継取得し、)現在本件建物には金三郎が母長子とともに住み写真撮影業を亡父から引き継いで営んでいる。そして右相続税納付のため、前記九番地の十五坪六合五勺の借地権と、戦前から他に賃貸していた台東区浅草寿町一丁目の五十七坪弱及び三十四坪弱の所有地とが第三者に売却された。なお、右九番地の残余の借地十一坪六勺は現在も空地のままであるが、旧借家人との間にこれを同人に使用させる旨の合意がすでに成立している。
かように認められ、この認定に反する申立人本人の供述(第二回)は前示各証拠に照し採用できない。右認定事実のうち、孝次郎が前示賃借申出を受けた昭和二十一年十二月二十二日当時の諸事実(主として上記前段の部分)よりすれば、この当時孝次郎は従前の写真撮影業を再開すべくその店舗として本件建物を建築中であつたのであり、またその生活を樹てるためこれを右店舗として自から使用する必要のあつたことが認められる。しかもこのことは、右認定事実のうち申出当時以降の諸事実(主として上記後段の部分)(これらは拒絶の正当事由の有無を判断する直接の資料となすことはできないが、申出当時にさかのぼつてその当時の状況をあとずける間接の資料とはなり得る)よりしても裏づけられているということができる。
(乙)(イ) 他方、証人深町良平の証言(第一、二回)及び申立人本人審問の結果(第一、二回)によれば、申立人は戦前北区田端町に内縁の夫深町良平-内縁関係にとどまつたのは、両人とも戸主であつたためでこの点を除いては両者は長く生活を共にし来り、通常の夫婦と異らない。-とともに居を構え同町その他都内数ケ所及び川口市に多数の貸家を所有し、その家賃と弁護士たる夫の業務上の収益とによつて申立人夫妻はその二児とともに富裕な生活を亨受して来たのであるが、戦災のため田端町の居宅その他貸家の大部分を失いそのうち葛飾区柴又町にある九戸が残存するのみとなりこれによる収入は僅少なものであること夫深町良平も戦前から弁護士としてその業務に従事し田端町に法律事務所を設けていたが、右のように戦災を受けたため戦後申立人等とともに残存した柴又町の家作の一戸に居を移すの止むなきに至り、弁護士の業務によつて多くの収益をあげ得ず田端町の罹災跡地約二百坪も空地のままに放置されているような状態になつたこと、(その後右宅地のうち借地だつた約八十坪はその所有者に返還し、その余の申立人所有地のうち半分は他に賃貸し、残存部分は区劃整理の区域内にあるため現在もそのままになつている)がいずれも認められる。
(ロ) 更に、甲第二号証、証人深町良平の証言(第三回)によつて真正の成立を認め得る甲第十三号証の一、二、及び証人石川徳重の証言によつて真正の成立を認め得る乙第七、八号証、第九号証の一乃至三、第十乃至第二十二号証の各記載に証人石川徳重、同深町良平(第一乃至三回)及び申立人本人(第一、二回)(但しいずれも後記不採用の部分を除く)の各供述をあわせ考えると、つぎのような事実が推認される。申立人の亡父松浦春吉は本件土地の一部に存した家屋をその所有者石川孝次郎より賃借居住していたが、大正十二年九月一日の関東大震災により右家屋は孝次郎が借地権をもつ前記十一番及び九番宅地上の多数の建物とともに滅失してしまつた。その後右家屋敷地跡に春吉が建設所有した仮建物の敷地使用につき、将来孝次郎が本建物建築その他の事由で敷地を必要とするに至つたときは春吉は無償で仮建物を取払つて敷地を返還し、また仮建物存続期間中は敷地使用料として毎月十円づゝ支払う旨の合意を骨子とする契約が同年末両者間に結ばれた。大正十五年九月区画整理の施行により右十一番宅地のうちの一部がこれに接する道路敷に編入されることになりその部分にある家屋を移転除却する必要が生じたため、孝次郎は右契約にもとずき春吉に対し仮建物を収去して敷地を明渡すべき旨求めたところ同人がこれに応じなかつたので、昭和二年末この旨の訴を東京区裁判所に提起した、この訴訟の繋属中仮建物が火災にあつて焼失し、春吉が焼跡に家屋を新築する等のことがあつたが、上述のような経緯や本件土地が東京都の所有に属し、その転貸が因難な事情にあつたこと等が縁由となり、結局、春吉は右新築建物の所有権を昭和三年七月十五日迄に孝次郎に譲渡し、孝次郎は春吉に対しこの譲渡の対価として同年六月末日迄の敷地損害金の支払を免除すること、孝次郎は春吉に対し右建物を昭和三年七月一日より五年間賃貸し、この期間満了したときはこれを改築し、権利金を請求することなく更に賃貸すること等を内容とする和解が両当事者間に成立した。なお春吉と同様その仮建物と隣接して本件土地の一部に仮建物を建てた岸しちと孝次郎との間にも右と同様の紛議が生じ、同じような経過をたどつて前同様の和解が両者間にも成立した。ところで春吉及びしちの右和解条項にもとずく権利義務は一旦右両名より青野与右衛門なるものに譲渡されたが、その後間もなく申立人が金七千五百円を以て同人からこれを譲受けた結果、昭和四年三月右和解条項を基本として、孝次郎と申立人との間に、孝次郎は前記各和解により春吉より譲受けた木造トタン葺平家建家屋一棟建坪六坪七合五勺及び岸しちより譲受けた木造トタン葺平家建家屋一棟建坪三坪を存続期間昭和三年九月一日より昭和四年九月末日迄の約にて申立人に賃貸し、申立人は右期間満了後自費を以て賃借物を改築し直ちにこの改築部分を孝次郎に無償で譲渡すべき旨の合意が成立した。この合意の趣旨に従い、昭和六年末申立人は約金千円を費して右二棟の建物を取毀しその跡(本件土地)に冒頭(一)に認定したような罹災建物を新築した上直ちにこの所有権を孝次郎に無償譲渡して同人からあらためて賃借し罹災当時にまで及んだ。このように認められ証人石川徳重、同深町良平(第一、二回)及び申立人本人(第一、二回)の各供述中右認定に反する部分は前示各証拠と対比して採用し難く、その他右認定を覆えすに足る証拠は存しない。
以上(イ)(ロ)の諸認定事実によれば、申立人等夫妻も戦災によつて多大の打撃を蒙り戦前のような経済的余裕を喪失したため、店舗として利用価値の高い位置をしめる(このことは公知の事実である)本件建物を賃借しこゝに収益を求めようと強く望み前示申出に及んだこと、殊に長年に亘り本件罹災建物を賃借し多額の資金をこれに投入して来た申立人としては、経済的のみならず精神的にも通常の借家人とは類比し得ない深い関心を本件建物に寄せその賃借方を願つて容易にこれをあきらめ難い心情にあることは十分に首肯し得られるところである。しかも本件建物の建築された当時には前記十一番及び九番宅地には未だ他に十分な空地が残されていたことは前示(甲)認定事実より明かであるから、それらを措いて本件土地上に本件建物を築造した孝次郎の措置には、少くとも本件土地につき前叙のような立場にあつた申立人に対する関係においては穏当でないものがあつたといわざるを得ないであろう。
しかしながら、これと同時に前示(乙)(イ)認定事実から、申立人は、戦後も弁護士としてその業務に従事する夫とともに生活し、僅少になつたとはいえ、なお九戸を算える柴又町の家作及び五十坪程の田端町の宅地を所有しており、右家作のうちの一戸にその家族等とともに安定した居宅を持つていることが認められるのであるから、申立人が、本件建物を店舗に使用して収益の方途を講じなければならぬ程の経済的窮迫にあるものではないこともまたうかがはれる。また証人森よし(第一、二回)、同石川歌子(第一回)及び相手方石川太郎本人の各供述によると、申立人はその賃借当初から罹災滅失に至るまで本件罹災建物に自から居住したことはなく、これを三戸に分割してその一戸では自己の営業名義の下に妹杉本喜栄をして煙草小売業を経営させ、他の二戸はいずれも第三者に転貸していたこと並に戦後杉本喜栄及び同人とともに罹災当時まで右の一戸に居住していたその娘の申出に応じて孝次郎は本件建物賃借申出を受ける以前にすでに同人等に本件土地の隣地を提供して昭和二十一年末までに同所に家屋を建てさせその所有権の無償譲渡を受けた上これを同人等に賃貸していることがいずれも認められるのであるから、本件罹災建物の現実の居住者であつた申立人の妹に住居を与えた上に、単に転貸等による利益を得ていたに止る申立人にもなお本件建物を賃貸しなければならぬのであろうかという相手方等の反論もまた正当事由の有無を判断するに際して斟酌されなければならないであろう。
これを要するに、以上各認定事実にもとずき、当事者双方が本件建物の使用を必要とする程度を比較し、本件建物の社会的利用関係を合理的に調整すべき目的よりこれをみると、相手方等先代石川孝次郎がその営業のために本件建物の使用を必要とした程度は申立人のそれよりも稍々高かつたものというべく、孝次郎において建築当初の予定どおりに本件建物を使用することを認容する方が、これを排除してまで申立人に本件建物を賃借使用せしめることよりもより妥当であると考えられ、なおその他諸般の事情を考慮すると、相手方等先代の拒絶には正当な事由があるものと解するを相当とする。
従つて申立人の前記賃借申出は有効に拒絶され、本件建物に申立人主張の賃借権は設定されなかつたのであるから、この賃借権の存在を前提とする申立人の第二次的申立もまたこの点において理由がないものというべく、これを棄却せざるを得ない。
よつて主文の通り決定する。
(裁判官 萩原直三)